“超”総合格闘技
先日、ちょっとした事件に巻き込まれた。県内某所に棒を振り回す暴漢が現れ、それを私が“保護”したのである。
関係者から聴いた話によると、その大柄な男は統合失調症で現在治療中だという。故に、上述の通り「保護」という表現を用いるのである。
統合失調症とは、妄想・幻覚・興奮……等の症状を呈する精神疾患で、以前は精神分裂病と呼ばれていた。
それは、とても危険な状況であった。タイミングが悪ければ、子供や女性などが被害に遭っていた可能性もある。男性であってもあの棒で殴打されたら大怪我をするだろう。いや、それどころか死んでいてもおかしくはない。
そんな状況において、なぜ私は対処することができたのか。
理由の一つは「経験」にある。
過去に私は類似した状況を何度も経験している。場数を踏み、かつそのような状況に対処できる能力を身に着けていたからこそ、今回の事件にも対処することができたのである。
いざというときにはやはり経験が物を言う。度を越した非行少年時代の経験も、今回のように役に立つことは往々にしてあるものだ。
もちろん、経験に依拠しないアプリオリな要因なども絡んでおり、必ずしも「場数を踏めば対処できるようになる」というわけではないだろう。
そして、もう一つの理由は「格闘技」だ。ここでいう「格闘技」とは、総合格闘技だけを指しているのではなく、私が学んだすべての格闘技や武術などを指している。
あの状況で相手に怪我一つさせることなく保護することができたのは、私に相応の格闘技経験があったからだ。格闘技を始める以前の私であれば、相手に大怪我をさせていた可能性が高いと思われる。
たしかに、あの状況に格闘技の経験値だけで対処するのは厳しいとは思うが、状況に相応した格闘技経験がなければ、あのような形で対処することはできなかっただろう。
そして、ここで最後に挙げる理由は「心」である。
上記2点の条件を満たしていたとしても、それ相応の心が伴っていなければ、あのように適切に対処できたとは限らない。もし私に相応の心が備わっていなければ、正当防衛にかこつけてストレスを解消していたかもしれない。あるいは、自分がヒーローになりたい一心で派手に振る舞っていたかもしれない。
もちろん、困難な行為を成し遂げるのもまた心の力である。
この「心」についても、当然生得的な要因と後天的な要因があるだろうが、ここでは割愛する。
ここですべてを語りつくすことはできないが、人間の行為は複合的である。
以前、友人がふざけて「人生とは“超”総合格闘技である」と言い放ったときは草を生やしたが、その言葉は本質的に的を射ている。